カランカラン…。
「いらっしゃい!お、杏奈ちゃん。この間はおばあちゃんの梅、ありがとよ!」
2週間前に少女の家族が持ってきてくれた青梅のことだ。少女の祖母の家は、この海沿いの地域から少し内陸の、里山が広がる美野里地区にある。両親や兄とともに収穫を手伝い、その足でお裾分けとして届けてくれたのだ。
マスターはすぐに氷砂糖を買い、梅シロップを仕込んでおいた。味見すると、ほどよく風味が出てちょうど飲み頃になってきている。
「はい、おばあちゃんの梅から作ったソーダ。」
「マスターのお兄ちゃん、ありがと!」
少女は喉が渇いていたのか、ごきゅごきゅと音を立てながらグラスの半分ほどを一気に飲み干した。その様子を、羊の被り物と同じ表情で微笑ましく見ていた女性スタッフは、ここ、本当にバーなのかな、という錯覚に陥った。
ここは確かに(マスター曰く)バーなのだが、お酒は一切置いていない。代わりにノンアルコールメニューが豊富で、下戸でも、禁酒中の身でも、妊婦さんでも、そして子どもでも気軽にその雰囲気を味わえる不思議な空間だ。そのようなコンセプトから、マスターは「休肝バー helmet」と名付けた。
5年前のオープン以来、常連客を中心に盛り上がっているこじんまりとした店だが、火曜日はなぜかよく小学生が遊びに来る。今、梅ソーダをいい飲みっぷりで半分空けた少女もそのうちの一人で、いわば「小さな常連客」だ。
マスターは特定の曜日にだけ、学校帰りの小学生が多く訪れる理由を知っている。
(ドリー先輩のその被り物は、ちっちゃい子ホイホイだな…)
マスターにドリー先輩と呼ばれているその女性スタッフは、子どもの話の聞き役になることが多く、今日も常連の少女の話に付き合っている。学校の授業が難しかった話、友達とのあいだで休み時間に流行っている遊びの話、家族総出で祖母宅の田植えや梅の収穫を手伝った話などが笑い声とともに漏れ聞こえてくる。しかし、5月に兄と行った思沢村での牧場体験キャンプの話になった途端、少女の声のトーンが暗くなった。
「杏奈ね、今までお肉がとっても好きだったの。でもね、キャンプの日から食べられなくなっちゃった…。」
「あらあら。それはどうして?」
「杏奈、見ちゃったんだ。動物がお肉になるところ。学校で習ったし、キャンプでも牧場の人が最初に話してくれたし、どうやってお肉になるのか知ってたけど、でも…そのあとのバーベキューから、どうしても食べられなくなっちゃったの。」
ドリー先輩は少し目を伏せた後、おもむろに被り物を外した。そして大きく息を吸い込み、声を張り上げた。
「よーし!無敵タイムスタート!」
様子を見守っていたマスターは(お、きたきた)という表情でニヤリと笑った。無敵タイムのドリー先輩は、普段の聞き役と違ってとても饒舌になる。いわゆるキャラ変だ。ちなみにドリー先輩は、月曜日などに店を手伝っている「ボタニカル先生」と大学の同期である。マスターは、突然スイッチが入るところや面倒見がいいところが似た者同士だなあ、といつも思っている。
「杏奈ちゃん、お肉を食べることは、かわいそうなことだと思った?」
少女は少し考えていたが、やがて小さく頷いた。ドリー先輩はそれを受けて、続けた。
「私は大学のときに、畜産学を学んでいたの。この前に杏奈ちゃんが体験に行った牧場でやってたみたいに、牛や馬、ニワトリなどの動物を飼って、お肉や牛乳、卵、あとは革の製品とか、人間の生活の役に立つものを作りだす。そんな勉強をしていたんだよ。その時に、今の杏奈ちゃんと同じような気持ちになったことがあったよ。」
じゃあもう一つ、と彼女は少女に問いかけた。
「お米を食べることも、かわいそうなことだと思う?」
少女は自分なりの答えを探そうとしているが、言葉にするのが難しい。少なくとも、肉を食べるときとは何か違う感覚なのだろう。ドリー先輩は、うんうんわかるよ、という様子だ。
「もしかして杏奈ちゃん、この前おばあちゃん家で手伝った田植えや、秋にするイネ刈りのことを思い浮かべてた?それと牧場の動物を比べて、何か違うなって。」
少女は同意するように首を縦に振った。
「確かに私もそう思う。実際、イネに神経はないし、動物みたいに鳴いたり叫んだりしないからね。」
でもね、とドリー先輩は続きを話した。
「イネ刈りって、種から育てた苗を田んぼに植えて、立派に生長したらその体を真っ二つに切ること。よくよく考えると、杏奈ちゃんが牧場で見た動物のそれと、やっていることは一緒だよね。そして私たちがそれらを食べることは、牧場で育てられている動物も、おばあちゃん家のお米も、生きていたのを殺して『命をいただく』ということでは同じなんだ。殺したくない、ってなると、『食べないことが優しいこと』にもなってくるよね。」
お米も食べないほうがいいのかも、と思って聞いていた少女は、ドリー先輩の次の言葉を待った。
「命をいただくことはかわいそうで、食べないことが優しいことなのかな。確かに牧場の動物もイネも、最後は人間に食べられるために育てられているよね。だから、食べられないのだとしたら生まれてくることもない。そこはペットの犬や猫、お店の外に植えている綺麗なお花とは違うかも。じゃあ、食べられることが運命なら、命を簡単に扱ってしまっていいかというと、そういうわけではない。ちなみに私は…」
これまでずっと早口で話し続けていた彼女は、一呼吸置き、ゆっくりと伝える。
「――私は食べることを選んだ。」
意志の強い言葉と眼差しを前に、少女は驚いている。
「ただし、選んだからには、ありがとうと思ってしっかりおいしく味わうことに決めた。命をいただくことに『感謝する』っていうのかな。」
彼女は話の最後には、いつもの微笑みに戻っていた。
すると突然マスターから、少女が座っているカウンターの前にプレートが置かれた。
「これは…何のお肉?」
少女の問いかけに、マスターが答える。
「牛ステーキ肉のアヒージョだよ。ちょうど仕入れてたんだ、杏奈ちゃんが行った思沢の牧場からね。」
「じゃあ、この前見た牛さんのうちの誰かがお肉になったもの…」
「そうかもね。もちろん食べるか食べないかは、杏奈ちゃん次第。私の友達でも、動物が殺されることを見てから、お肉は食べない!って決めた人をいっぱい知ってるし。それも1つの立派な選択。もし杏奈ちゃんが食べないなら、私が美味しくいただいちゃおっと!」
ドリー先輩は、とにかく無理はしなくてもいいんだよ、とフォローした。
少女は悩んだ。ほんの一瞬だったかもしれないし、どこかで命が生まれ、その命が消えたくらいの長い時間だったかもしれないが、今までにないくらい悩んだ。確かなことは、目の前にあるそれはとても美味しそうで、いいにおいがする。生きていたときの牛や、それがお肉になったときのことも考える。悩んでいるうちに、みるみるよだれが溢れ出す。食べたい。食べたくない。それでも目の前にあるこの美味しそうなお肉を食べてしまいたい…。
「ありがとう。いただきまあす!」
意を決して口に運んだそれは、今まで食べたどんなお肉よりも美味しいと思った。味付けのせいではない。命をいただくという覚悟を持って、自分なりにちゃんと食べ物に向き合ったからこその美味しさだった。食べることを選んだ自分の身体の中に命が入り、自分と一緒になることの喜びを何度もかみしめる。
「美味しかった、どりーねえちゃん。マスターのお兄ちゃん。ありがとう。」
アヒージョをたいらげ、残りの梅ソーダも一気に飲み干した少女は、満面の笑みになった。
「お、うまかったか!それは良かった。そうそう、お礼ならあの人にも。今日のアヒージョはあちらのお客様からのサービスだよ。あ、梅ソーダは僕からのサービスだけどね。まあ、もとは杏奈ちゃんが持ってきてくれた青梅だけど。ハハハ。」
笑いながらマスターが顔を向けた奥のカウンター席には、シルクハットに整った髭の男が座っていた。
「あ…ありがとう。おじさん。」
少しおどおどしながらお礼をした少女に、ハットをずらして応じる。少女は何となく、あの人どこかで見たような気がすると思った。
「私が勉強した畜産学っていうのは、育てる、使う、食べるってことを通して、人間が動物と一緒に『生きる』ことだと思うんだよね。これからもお肉を食べるかもしれないけど、この気持ち、ふと思い出してね。お肉だけじゃなくて、お米も、そしてソーダの梅も、みんなそうだけどね。」
一段落した後、ドリー先輩は少女に一番伝えたかったことを話した。真剣に言ったのに、なぜかレジにいるマスターが笑っている。
「ごめんごめん、ソーダもそうだ、が無意識にギャグになっててツボった…」
「このオヤジ!私より年下でしょ。」
「…ニャンコ、待って!ああー、羊のお姉ちゃんのお店に入っちゃった。」
「あれ、あそこにいるの、杏奈ちゃんじゃない?」
猫を追いかけてきたと思われる、ランドセルを背負った子どもたちがその少女に気づき、店の外から覗いていた。
「先に走って帰っちゃったと思ったら、杏奈ちゃんだけずるーい!」
抜け駆けがばれてしまった少女は、得意げな顔でその子たちに言った。
「今ね、生まれてから一番おいしいお肉、食べたよ!」
「えーもっとずるい!」
「わたしも一番おいしいお肉食べたい!」
「じゃあ、まず牧場体験キャンプに行かなきゃね!」
「なんだそれ!どういうことー。」
「てかさっき何か困ってたのに、元気そうじゃん!」
マスターはそのワイワイとした様子に少し呑まれながらも、小学生たちに話しかけた。
「君たちも寄ってく?杏奈ちゃんのおばあちゃん家の梅を使った、休肝バー特製梅ソーダ、今なら特別サービスだよー。」
ドリー先輩はいつの間にか羊の被り物をつけていた。そして、テーブル席で矢継ぎ早に話す子どもたちの聞き役に徹している。
存在感なく流れていたラジオから天気予報が伝えられる。明日はまた天気が崩れるようだ。マスターは、店内にも入り込んだにぎやかな日差しに目を細めながら、束の間の梅雨の中休みを楽しんでいた。